深夜の思考録①

 

「結局自己肯定感の話か?」

 

自分がくよくよしている時、人の話を聞きつつも、最後はやはり自分が乗り越えなくては根本的な解決にはならない。

 

Twitterを長年にわたり使用しているがゆえに、「考え方の癖」がついてしまっているようだ。

流れてきた呟きのテーマとか内容をもとにそれについて考える、という一連の流れがすっかりできあがっている。

「他人」という存在が無ければスイッチが入らない……というのもおんぶにだっこで嫌だったりするが結局見ている人には見抜かれてしまっているのだ。

そもそもわたしは人間をいくつかに分類した時に「分かりやすい人種」に属していると思っているから仕方が無い事といえばそうである。

難しいとかわからないと思った時は、それは単に使用する「言葉」のせいである。

今回もまたその「おんぶにだっこ」でクヨクヨとしているのだった。

 

 

 

蜜蜂と遠雷』からここまでの繋がり。うーん見えんな。

明らかに深夜テンションで拍車がかかっているようだ。

というこの文章も深夜でなければ書けないのだが。

「夜」という時間帯と少々のうぬぼれ。

 

さて、上記の呟きを単純な図式に直す。

①『蜜蜂と遠雷』を読んで「音楽との向き合い方」について考える

②中学の時の「音楽の向き合い方」は未熟だったと考え、その経験をもとにしていたことを恥ずかしく思う

③「向き合い方」が未熟だったのは基礎的な土台ができていなかったからである、という考えに行きつく

④では基礎的な土台はどうできるのか?それはインプットによる

⑤インプットする=様々な物事を見聞きする、体験・経験すること

 

 

 

さてここからの展開が飛躍しているようでわたしにもわからない。どういうこっちゃ。

言いたいことはわかるけど、つながりがわからないなあ。

 

基礎的な土台があればわかるようになる、わかることでまた救われる、救われるとは「自分を肯定されること」、と続くけど、うむ、ここはまだ改良の余地ありです。

 

結局として「世界から自己肯定される」には「いろんなことを知らなきゃならない」ってことかなあ。一行にまとめるのに字数だけめちゃくちゃ使ってるな。

でも「世界から自己肯定される」感覚は独りよがりなんですよね。おそらく。

最後はひとりで「いいね」ボタンを押さなきゃ生きていけない。

だから他者の「いいね」がいくらあっても足りないし、飢えはしのげない。

「これまで自分が歩いてきたところ」を「世界」に「肯定」される。

この感覚は自分しかわからない。

他人に言われても、自分自身に「これでよかったんだ」という、しっかりとした実感がなければ意味がない。

すべてはそのために。

 

あれ、なんかループしてる感覚が若干あるな。

それは今度までの宿題。

 

他者からの承認がすっと欲しかった私にしてはよくここまで行きつきましたね。

自分で自分をほめます。

 

おわり