深夜の思考録①
「結局自己肯定感の話か?」
自分がくよくよしている時、人の話を聞きつつも、最後はやはり自分が乗り越えなくては根本的な解決にはならない。
Twitterを長年にわたり使用しているがゆえに、「考え方の癖」がついてしまっているようだ。
流れてきた呟きのテーマとか内容をもとにそれについて考える、という一連の流れがすっかりできあがっている。
「他人」という存在が無ければスイッチが入らない……というのもおんぶにだっこで嫌だったりするが結局見ている人には見抜かれてしまっているのだ。
そもそもわたしは人間をいくつかに分類した時に「分かりやすい人種」に属していると思っているから仕方が無い事といえばそうである。
難しいとかわからないと思った時は、それは単に使用する「言葉」のせいである。
今回もまたその「おんぶにだっこ」でクヨクヨとしているのだった。
一気に読んでしまった。でも一気に読んでしまったのはよろしくなかった気がする。きっともう一度読み返す。いや絶対。近づいたのに掴みきれずそのまま遠ざかった感覚だけが残った。このふやふやしたもの。もやがかかっている。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
高島明石の「春と修羅」が聞いてみたい。読み終わってもそこだけ取り残されている。おいてけぼり。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
なんか恥ずかしくなってきた。音楽は中学生の部活でしか向き合わなかったし自分が楽しくやっていればいいと思っていたしあの頃は、とりあえず音が出れば、正しい音程(といっても細かく見ればズレている)で出ればいいと思っていた。それが基準だったんだろうなあ。今は違う。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
違うことが基準になって、それを元にやろうとするけど、やる努力がこれまではあまりにもなさすぎて自分の思っているものは描けないんだよな。土台がない。スッカラカン。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
だから作る・演奏する側じゃなくて、受け入れる・聞く側になるしかないなあと思う。亜夜にとっての塵は、わたしにとっては今のところあの人だけどきっとバレてんだろうな。しかたないもん、そういうもんなんだからさ。一方的な好意。そういうスイッチなんだろと考えてる。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
感想のようなものを打ってるだけで泣けてきた。なんだろうねこの涙は。きっかけははしこちゃんというなんか不毛なもんだけど出会えたものが素晴らしいからいいのです。そして「ほらみろ」とつっついていればいい。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
いやーでも似て非なるものかもしれないしな!ガハハ!でも、いいや、。勝手に思ってるだけだ。人間の認識なんてそんなもんだ
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
「音楽」との向き合い方が年々変化してると思うんだけど特に今年はどんどん変わってる。変わっているというのも、「話に聞いてはいるものの『言葉の意味』はわかるが『理解してない』状態」から、「『言葉の意味』が『理解できた』状態」への変化だから、理解するための基礎工事が終わったといっていい
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
だから「untitled」でワンワンしたしこれまでの嵐にゃアンテナが反応しなかったとも思うけどな。正直、QUARTETTOの気づきがなければ「untitled」でワンワンした自信がない…
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
確かに嵐の向く方向とかあの人たちの中の考え方とか色々な要素も影響してるんだろうけど、受け手聞き手のわたしの方も準備ができてなきゃハマらないわけで。鍵と鍵穴ですよね。形がようやく一致したという。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
鍵と鍵穴って体の中の酵素やーんというセルフツッコミが飛んできましたがそれは今日自然科学のDVD見てたらそんな説明がされたからでしょ。これもタイミング。タイミングほんと大切。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
鍵と鍵穴の関係思いついたのは自然科学見たからというややこしい話になっているナ
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
脳の中で連想ゲームしてるんだろうな…そして自分の中で点と線が繋がるとびっくりして電撃はしって楽しくなって揺さぶられて最終的に救われる。簡潔にいえば救われる=自分の存在を肯定される、こと
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
やっと「untitled」嵐に自分の存在が肯定されたと実感したからワンワンしたので、QUARTETTOのNEWSには肯定されなかったからお怒りモードだったんだろうなあ。肯定も否定も中途半端だと思っちゃった。でもそれはわたしの中途半端な理解力のせいでした、という簡単な話
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
簡単な話なんだけどここに行き着くまでに一年以上かかっているのでほんと自分がばかだと知らされる。世の中にはすごい人がごろごろいるのだ。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
そして「自分が肯定されている」と知るためには知るだけの基礎理解力が必要なのであって、その基礎理解力を養うには様々なインプットをしなければならない。それは色んなものに触れるしかない。点を増やすしかない。教養音言葉思想時事問題フィクションノンフィクション問わず。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
と、ここまで考えて、「あれ?これつきつめて考えた先にあるのはこないだ聞いた共通善の話に関係性があるのかもしれないのか?」となったので、インプットと多少のひらめきが必要💡だとまたまたがっくりしたのでした。ひらめきというか、思考の飛躍でしょうか。
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
なんかカッコよさそうに見えることを言ってる自分に酔い始めたのでこの辺でやめておく。でも考えた結果は呟いたとおりなんだよな。好き勝手な呟きの場で呟くくせに呟き始めると自己顕示欲が少しずつ膨らみはじめる。相変わらずこの場の意味を理解していない…
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
いやでも酔い始めた自分に気づいた点は褒めて欲しい(うるせえ)(とっととねろ)(そういうこというからなんかいわれんだよ)(ほんと人に褒められたいヒトの形をした塊であるなあ)(だから寝ろ)
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
そしてこの話をまたブログにまとめないとTwitterの濁流にのまれるので早急にまとめておくこと。そしてくよくよした時に見つめ直すものとして保存すること(自戒)
— 鰯 (@yoshi_yosida) 2017年12月8日
『蜜蜂と遠雷』からここまでの繋がり。うーん見えんな。
明らかに深夜テンションで拍車がかかっているようだ。
というこの文章も深夜でなければ書けないのだが。
「夜」という時間帯と少々のうぬぼれ。
さて、上記の呟きを単純な図式に直す。
①『蜜蜂と遠雷』を読んで「音楽との向き合い方」について考える
②中学の時の「音楽の向き合い方」は未熟だったと考え、その経験をもとにしていたことを恥ずかしく思う
③「向き合い方」が未熟だったのは基礎的な土台ができていなかったからである、という考えに行きつく
④では基礎的な土台はどうできるのか?それはインプットによる
⑤インプットする=様々な物事を見聞きする、体験・経験すること
さてここからの展開が飛躍しているようでわたしにもわからない。どういうこっちゃ。
言いたいことはわかるけど、つながりがわからないなあ。
基礎的な土台があればわかるようになる、わかることでまた救われる、救われるとは「自分を肯定されること」、と続くけど、うむ、ここはまだ改良の余地ありです。
結局として「世界から自己肯定される」には「いろんなことを知らなきゃならない」ってことかなあ。一行にまとめるのに字数だけめちゃくちゃ使ってるな。
でも「世界から自己肯定される」感覚は独りよがりなんですよね。おそらく。
最後はひとりで「いいね」ボタンを押さなきゃ生きていけない。
だから他者の「いいね」がいくらあっても足りないし、飢えはしのげない。
「これまで自分が歩いてきたところ」を「世界」に「肯定」される。
この感覚は自分しかわからない。
他人に言われても、自分自身に「これでよかったんだ」という、しっかりとした実感がなければ意味がない。
すべてはそのために。
あれ、なんかループしてる感覚が若干あるな。
それは今度までの宿題。
他者からの承認がすっと欲しかった私にしてはよくここまで行きつきましたね。
自分で自分をほめます。
おわり